疾病の事例

熱帯熱マラリア

世界中どこにでも気軽に出かけられる時代となり、企業の駐在員や出張者は発展途上国の「田舎」に送られることも珍しくはなくなった。当然だが風土病などに感染するリスクも高くなる。
シンガポールに単身で駐在していた男性(46歳)は、出張で数日間マレーシアの田舎町に滞在した。出張には慣れたマレーシアであり、毎度のことながら感染症に関して特別に注意することはなかった。
シンガポールに戻った週末、突然40度を超える原因不明の高熱に襲われた。それまでに経験したことがない発熱と激しい悪寒で全身は振るえ、どんなに布団をかけても寒気が収まらなかった。
出張後に連絡がないのを不審に思った同僚が自宅を訪ねたところ応答がない。異変を直感した同僚はマンションの管理人を呼び、開錠して部屋に入ると、男性はベッドにぐったりと横たわって、声を掛けてもほとんど反応がなかった。 救急車で搬送された病院で熱帯熱マラリアと診断され、そのまま入院。幸いにも回復することができたものの、もし同僚の機転がなく一日でも放置されることになったら命にかかわっていたことだろう。人に感染する4種類のマラリアのうち、熱帯熱マラリアは迅速な診断と治療が必要とされる最も危険なものだ。
熱帯から亜熱帯地方にかけてマラリアは大きな医療問題となっている。都市部やリゾート地では感染の危険性は低いものの、田舎に出かけるときは治療薬の予防内服が必須であると考えたい。マラリアには薬剤耐性を持ったものも出てきており、予防内服の効果が期待できない場合もあるが、それでも感染・発症のリスクを少なくすることは可能だ。
マラリアは蚊が媒介するため、蚊の駆除と患者の治療を地道に行えば全体の患者数は減ることが予想できる。しかし自然相手の仕事は困難を極め、ワクチンの開発も遅れているマラリアは、地球上で人類の生存を脅かす最後の感染症になる可能性もあるという。熱帯地方などマラリア感染の危険性がある地域に出かけた直後に発熱した場合は、必ずその情報を医師に伝えて欲しい。マラリアがない国の医師は、初診からその感染を疑うことは少なく手遅れになることもあるからだ。

ノロウイルス感染

「確か2個までならあたらないっていうよね」「うん、そうね。ちょっと不安だけど2個までならいいか」―そんな会話を同僚と交わしながら、ある日本人女性は、某高級ホテルのディナービュッフェで生カキを皿に2個取った。「さすが、よいホテルで出すカキはおいしいね」―そういいながらついつい3個目に手を出していた。
その晩のこと、腹部の不快感で眼が覚めた彼女はトイレに駆け込んだ。「あたっちゃった、2個にしておけばよかった」と、後悔したが手遅れだ。結局夜が明けるまで寝ることもできず、何度となくトイレとベッドを行き来するはめに。回復まで1週間ほどかかったという。
おそらくノロウイルスに感染したのだろう。日本ではかつて食中毒統計に入っていなかったが、数年前に小型球形ウイルス患者数として計上されるようになり、それ以来代表的な食中毒として広く知られるようになった。死ぬほどのものではないが、感染力が強く、海鮮料理を食べた場合はもちろん、患者と同居していて感染したり、場合によっては学校など集団生活の場で大規模な感染が起きたりすることもある。
ところで彼女が言っていたように、生カキは2個までならあたることはないのだろうか。残念ながらそのような根拠はどこにもない。そればかりか、カキの「汁」が付着していただけでも感染の危険性があるほどだ。カキなどの貝類が危険なのは、呼吸するときに海水とともに吸い込まれたウイルスがその体内で濃縮されるためだ。細菌性食中毒のように、食べたものの鮮度が悪かったことが感染原因になるというものでもない。
高級なレストランだからとか、新鮮だからとかいったことで、生カキの安全性を判断してはいけない。むしろ感染のリスクは常にあるものと考えて、大げさな言い方であるが、「覚悟して」食べたほうがよい。いや、海外ではあえて生ものを食べないようにしたほうがよいかもしれない。

結核

結核は過去の病気ではない。確かに戦後日本では結核患者は減少の一途をたどり、経済成長に目を奪われたバブルの頃にはそんな病気があることすら一般には忘れられてしまったこともある。しかしその後徐々に患者は増え続け、一昨年にはある医師団体が「結核非常事態宣言」を出すに至ったが、最近はやや落ち着いたようだ。しかし先進国の中では際立って結核患者が多いのが日本の実態であることに変わりはない。
海外では発展途上国を中心として、日本よりも結核感染のリスクが高い国が多く、海外在住邦人にとっても十分気をつけなければいけない健康問題だ。
日系大手企業のある現地法人に出向して3年目を迎える男性(34歳)は初めて受診した健康診断で結核が発見された。本人は風邪のような自覚症状が2~3週間にわたって続いていたという。本人にとっては結核に感染したということが大きなショックであったが、問題は個人にとどまらず同じオフィスに勤務する社員3人に感染させていたことだ。結核患者には結核菌を排出しているタイプと、患者の体内から一切排菌しない二つのタイプがあるが、彼の場合は問題が大きい前者であった。
会社内や学校などの集団の中で結核患者が発見され、さらに患者の排菌が認められた場合は、ただちに関係者全員の結核検診を行わなくてはいけない。結核は本人も感染に気がつかないことがあり、知らないうちに周囲へ感染を広げてしまうこともあって社会的に大きな問題となる。症状があっても風邪くらいにしか思わないことも感染を拡大する原因だ。
この患者が勤務していた職場では、上司が主治医とも相談して対処したためそれ以上の感染の拡大はなく、間もなく業務は平常に戻ったという。
結核患者の発見には定期的な健康診断で胸部のレントゲン写真を撮ることが極めて有効である。多くは排菌していないタイプで、通院治療ですむ場合が多いので、隔離入院させられるのでないかと心配せずに積極的に検査を受けて欲しいものだ。結核は古くて新しい、そして意外なほど身近な病気であることを十分認識しておくべきだろう。

心筋梗塞

急性心筋梗塞に襲われたものの、たまたま隣で寝ていた妻の気転で命拾いした海外駐在銀行支店長(46歳)がいた。彼はそれまで一人暮らしといえば東京で過ごした学生時代の4年間くらいのもので、幸いにも単身赴任というものを経験していなかった。銀行マンとして忙しく働いてきた彼には自炊などとても無理。そんな彼の初めての単身赴任を誰よりも心配していたのは妻だった。ともに海外生活したくても、中学生と高校生の二人の子供がいてはとても現実的な話にはならず、子供の長期休暇のときに限って1~2週間のみ夫を訪ねていた。
さて、夫婦水入らずで久しぶりに2人で食事をした。お酒も少し入った晩だった。この日、夫は少々疲れを感じて早目に床に着いた。妻はこのとき、数時間後に夫の身に大変なことが起こることなど想像すらできなかった。遅れてベッドに入った妻が夫のうめき声で目が覚めたのは明け方だ。ただならぬ様子に驚いた妻は、夫から緊急時の連絡先として知らされていた行員の自宅に電話を入れて救急車の手配を頼んだ。間もなく到着した救急車で大学付属病院集中治療室に収容された。急性心筋梗塞だった。迅速な手配が実を結び一命をとりとめ約1か月もの入院を必要としたものの、無事に職場復帰することができた。
「一生妻には頭が上がらない」と彼は笑いながら照れるが、急性心筋梗塞は心臓の栄養血管である冠状動脈が詰まって心臓組織が壊死するため、発作時には1分1秒を争う極めて緊急度が高い疾患だ。もしあのとき妻が隣にいなければ、彼はおそらく帰らぬ人となっていたに違いない。
日頃から特に単身赴任者の緊急時の対応については、個人のみならず法人においても十分シミュレーションしておく必要がありそうだ。

虫歯治療での麻酔事故

メーカーの技術担当として、ひとり中国広東省に派遣されていた46歳の男性が、痛み出した虫歯の治療を受けるために、会社からほど近いところにある歯科医院を訪ねたときのことである。歯を削る前にいきなり麻酔を打たれた。1本、そして2本目を注射しているときだ。彼は意識が遠のくのを感じ、そのまま気を失ってしまった。周囲の呼びかけにも答えられない彼の血圧は最高でも40に達しないほどで、まさに瀕死の状態であったという。歯科医が恐れるキシロカインショックだ。実際には麻酔薬であるキシロカインに添加される血管収縮剤がショックの原因になることが多く、最悪の場合は死に至るという。
血管収縮剤は局所の出血を抑えるために使われているものだが、心疾患や高血圧患者には、注意を要する薬物である。彼が受けた健康診断の結果によると、やや血圧が高く、コレステロール値が上限を超えるなど循環器系疾患リスクは決して低いとはいえなかった。アルコールの影響は、肝機能にも現れていた。またヘビースモーカーである彼の循環器疾患リスクは、検査結果を上回るものであったであろう。
急性ショックに何とか耐えた彼は、後に香港そして日本で精密検査を受けるが、特に問題となるような結果はなく、医師からは完全に快復しているものと告げられた。ところが本人は胸の不快感が続いていることで日本の医師の診断に納得がいかずに香港に戻ってきた。結局香港の私立総合病院で最新の心臓検査機器で検査を受け、むこう5年間は心臓に問題は起きないであろうという判定にやっと満足して中国に戻っていった。
この事例は歯科治療といっても、循環器に問題がある人にとっては十分な注意が必要であることを教えてくれた。たかが虫歯治療などといわず、自身のリスクについては歯科医に積極的に伝えておきたいものである。

脳卒中

大手メーカーからフィリピンに単身赴任していた男性が脳卒中で倒れた。彼は死を免れたものの長期間のリハビリを日本で続けている。長期にわたり糖尿病を指摘されていたが、自覚症状もないので放置していたのがよくなかった。勤勉で任されている仕事には細心の注意を払うが、自分の健康のことにはまったく無頓着。まして糖尿病は痛くも痒くもない病気であり、気にもしていなかった。 倒れたのは自宅。この日は休みで同僚を自宅に呼んでいた。同僚は、事前に電話でこれから向うことを伝えようとしたが応答がなかった。不審に思いながらも彼の自宅マンションに向かった。ドアホンを何度鳴らしても中からの返答はない。しかし偶然ドアに鍵がかかっていなかったことが幸いして、リビングで倒れていた彼を発見することができた。
搬送されたのはマニラで最も大きな病院。ところが何の処置もされずに寝かされることになる。患っていた糖尿病が問題となり、医師が手術を躊躇したのだ。こうなったら日本しかない。ところが頼りにしていた航空会社は搭乗を拒否。幸い地元の航空会社が医師の同乗を条件として搭乗に同意。飛行機の座席シートは横6列を使って急ごしらえのベッドが準備された。
成田空港では待機していた救急車で千葉県内の病院にただちに搬送。緊急手術を受けたものの半身麻痺と言語にも重度の障害が残った。リハビリで身体はなんとか動かせるようになったが言語機能の回復が遅れており、その後は転院した郷里の病院でリハビリを続けた。 単身赴任では、健康は特に重要な要素だ。ひとり自宅で倒れてしまったら、ということを常に考えておきたい。もちろん本人だけの問題ではなく、会社としても十分考慮しておきたい問題だ。この事例は偶然が重なって一命をとりとめることができたが、そうでなければ死亡していた可能性が高い。