赴任前の準備

医療情報の入手

 従来は一般家庭向け医療医学書の海外赴任先への持参は必要不可欠だったが、近年はインターネットでかなり豊富な情報が得られるようになった。もちろん現在に至っても家庭向けの医学書がまったく利用価値がないものになったとはいえないし、居住する国や地域によってはインターネットに対する規制が非常に厳しい場合もあるので、そのような国や地域への赴任に際しては、医学辞書を含め数冊の関連書籍を準備しておきたいものだ。また医学書はある程度まとまった内容のものになっているので、書籍も手元に置いてインターネットの利用との両面で活用したい。
 時代の流れで当然ではあるがネット上で医療情報を得ている人が非常に多く、その点を考慮した上で、利点と問題点についてここでは触れておきたい。

 世界中どこにいても、一般的な医療情報はもちろん、かなり専門的な情報に関しても自由に閲覧できる大変便利な道具がインターネットだ。検索機能を利用すれば、知りたい情報にすばやくアクセスできることも心強い。さらに絞り込み機能などを活用することで、得たい情報により効率的に到達できる。しかし反面思わぬ落とし穴もあることを理解しておきたい。

一般医療情報サイトの活用

 政府機関、大学医歯学部、病院、診療所など多くの施設がホームページを開設し、さまざまな情報を発信している。もちろん宣伝の役割が大きいものもあるが、得意とする分野の情報を集中的に発信している有益なサイトも多い。政府機関の情報は、インターネットがなければ簡単には入手できなかったものが多く、気軽にアクセスできる簡便さから、その利用価値は非常に大きいといえよう。
 ネット上に流れる情報は確かに玉石混交である。SARSなど新しい病気の不安が大きなときなどは、うわさや憶測が飛び交い、出所不明の怪しい情報がまことしやかに発信されて混乱を招くこともある。政府あるいはそれに準ずる機関のホームページにアクセスして、必ず第一次情報を得て欲しい。

掲示板の利用

 インターネットでは「掲示板」と呼ばれる自由に意見交換ができる場所がたくさんある。医療関係の掲示板も多く、わからないことがあれば誰でも掲示板で尋ねることが可能だ。わかる人が回答してくれることが期待できるが、気をつけておかなければいけないのは、回答者は専門家であるとは限らない。もちろん偽の情報が発信されることもある。
 また意見が合わないもの同士が掲示板で火花を散らすことも珍しいことではない。お互いに顔を合わせるわけではなく、知らないもの同士が一般的には匿名で意見交換するものなので、当然のことながら問題も起きやすいことを理解したうえで掲示板を利用したい。
 似たようなものでメーリングリストというものがある。これはメールアドレスを登録したものだけが参加できる閉ざされた情報交換の場だ。参加資格を限定しているもの、たとえば医師のみ参加できるメーリングリストなども存在するが、もちろん一般の人が自由に参加できる医療関連メーリングリストもある。メーリングリストは送ったメールが参加者すべてに届くシステムだ。もちろん誰かが質問に回答してくれても、そのメールは同様に配信される。ひとつのテーマを皆で議論するには大変便利なツールといえるだろう。ここでも掲示板と同じように「喧嘩」が起きることもあるが、掲示板と違って匿名性が低いので管理者によって当事者間に割って解決することもできる。

病気治療

 病気治療をしているのにもかかわらず海外に赴任しなければいけないこともある。基本的には派遣を見合わせるべきであるが、人事上の制約から赴任地での継続治療を条件に駐在を認められることも珍しいことではない。たとえば高血圧や高脂血症、糖尿病などの慢性疾患の場合は赴任先での継続治療を指示されることもあるし、日本から薬を送ってもらっている人もいる。しかし、診察も受けずに送られてくる薬を飲み続けることは勧められない。本人は日本からの薬を安心して飲んでいても、効果がないばかりか知らないうちに悪化しているようなこともあり得る。現地の医療機関で定期的に診察を受けると共に、それまでの薬でよいのか、現地で処方可能な薬に変えたほうがよいのか、医師とよく話し合って決めたい。そのためにも現在服用している薬の成分の英語名くらいは調べておきたい。

歯科治療

 海外赴任を前にして、準備しておかなくてはいけないことは思っている以上に多い。目先の準備に追われて忘れてしまうのが歯科治療。歯科治療は1~2度通院すれば治癒できるというものは少なく、時として長期治療が必要なこともある。辞令を受けてから治療を受けたのでは遅すぎることもあるかもしれないが、とにかく早目に歯科医をたずね、検診を受けておきたい。虫歯など縁がないと思っていても赴任後間もなくうずき始めたという駐在員もいる。仕事が忙しくなかなか治療に費やす時間が取れないで痛みをこらえているという事態もあるだろう。問題がないと思っていても必ず歯科検診を受けておくことをお勧めしたい。また必要な治療は出発前にすべて終えるという計画性が欲しい。赴任地でも治療を受けることはできるにしても治療費が高く、しかも保険の適用を受けられないことが多い。

赴任前健康診断

 海外勤務者は赴任前に、法で定められた内容で健康診断を受診しなければならない(赴任前健康診断)。ただし、これはあくまでも企業などがその要員を海外に勤務させる場合に提要されるもので、個人で渡航する場合はもちろん、駐在員の家族に対しては求められていない。しかし、海外で長期滞在が予定される場合は法律の枠にこだわらず健康診断を受けておきたい。その結果健康状態に何らか問題が指摘されることも少なくないだろうが、治療可能なものであれば出発を延期してでも日本で治療を受けるべきだ。
 また、高血圧など慢性疾患で短期間での治癒が困難な場合もあるだろう。海外居住に耐えられるものであるかの判断はもちろんのこと、継続的に必要となる日常生活の注意点など、医師から十分な説明を聞いておきたい。もちろん健康診断結果によっては、海外居住が不適当だとの判断もされるが、最近の駐在員は、多少健康状態に問題があっても派遣されることが多く、赴任後に十分な自己管理を必要とするケースも珍しくはない。さらには赴任地で引き続き治療が必要な場合もあるなど、本人が自分自身の健康維持に十分注意しなければいけないことはもちろん、派遣企業や現地法人に関しても社員やその帯同家族の健康状態について配慮しなければいけないことは言うまでもない。
 健康診断の結果は、できれば英訳を作成してもらおう。赴任地の医療機関で受診する際に大いに参考になるはずだ。さらにアレルギー情報や既往歴についても英文で付記されていると好都合だ。必ずしも居住国が英語圏とは限らないが、多くの国の医師はある程度の英語力が期待できるので、少なくとも日本語の書類だけを持参するよりもはるかに利用価値は大きい。

メンタルヘルス

 海外への転勤は、赴任地によってその受け止め方も大きく違うが、周囲で思われているほど先進国での生活の満足度が高いともいえない。反対に途上国で本人も気が進まなかった赴任であったとしても、意外にもその後の生活をエンジョイしていることも少なくない。海外で生活するのは、ちょっと旅行に出かけて3~4日滞在するのとはまったく異なり、言葉も文化もまったく違う土地で、現地の人々と日々交流しながら生活しなければいけないのだ。ある意味「客として」迎えられる一般旅行者とは訳が違う。
 そのため、ときとして自分が思い描いていた外国のイメージを覆されることも珍しいことではなく、そのギャップに悩み精神的に大きな負担となることもある。日本人の場合、欧米には美化された印象が強い傾向があるだけに、それらの国へ転居した場合にかねて思い描いていた印象と異なり、その現実を受け入れることができなかった場合の苦痛は、日本にいる者からは想像しにくい面もある。
 また夫は自ら望んだ海外勤務であったとしても、妻にとっては必ずしも夫が思うほどうれしいものではなく、ときとして仕方がなくついていくこともあるということを理解しておきたい。赴任地で、夫が仕事や接待、出張に忙しく、さらに言語に代表されるような職場でのコミュニケーションギャップに疲れていることを理由に家族のケアを忘れていると、こんなところに連れてこられたと受身でしか思っていない妻としては、子供の面倒を日々見るだけの生活に希望を失い、鬱症状を呈することもある。
 聞いた話なので事実関係は不明であるが、ある企業においては職場内結婚を奨励しているという。それは男性社員の仕事が激務であり、ほとんど家庭を顧みることができないという現実を知っている女性のほうが、そんな世界を知らない女性よりも結婚後によりよく夫のサポートができるという前提でのことらしい。こういった女性は自分が望まない海外転居であっても何も言わずに我慢して、結局精神的に潰れてしまうこともあり得る。夫が十分に妻の話を聞いてあげないと、妻がひとりで帰国するということにならないとも限らない。
 海外赴任は、初めの1~2か月くらいは異国での緊張感やもの珍しさもあって、精神的な失調をきたすことは少ないものの、その時期を過ぎて冷静に状況を判断できるようになった頃にさまざまな問題が起きることがある。新しい環境に馴染めず、自宅から外に出ることもできずに閉じこもり悶々としてしまう様子は、「五月病」と呼ばれるものにも共通している。原因不明の頭痛や発熱、下痢などの腹部症状などに襲われることがあるが、これは海外生活に伴う環境変化に身体が適応できずにいることで、「海外不適応」をきたしているともいえるだろう。
 家族で赴任した場合、夫の役割が大きいことは間違いない。会社での業務を必死にこなす一方で妻や家族のケアをしなければいけないので海外赴任者は大変であるが、本人も慣れない言葉と習慣の中で仕事をしなければいけないので、正直なところ家庭のことまで考えられず、妻が自分自身で何とかしてくれるだろうと期待混じりの勘違いをすることになる。これが問題だ。妻は自分のことを理解してくれない夫に失望して重度の鬱症状に見舞われることもあり、帰国や離婚の原因にもなってしまうのだ。少なくとも家族のケアは、海外赴任者にとって仕事の一部だと心得ておくほうがよいだろう。
 海外でも精神科医の存在は珍しくないが、日本人の治療にはやはり母国語が必要だ。海外にも日本人精神科医がいるが、極めて希なので自分の赴任国にはいないものだと諦めていたほうがよいくらいだ。それだけに鬱をはじめとする精神疾患への対処が問題となる。重症の場合には日本への帰国も必要になるが、それほどでもない場合は、信頼できる第三者に思いのたけを話すだけでも効果が期待できるという。
 聞き役はアドバイスなどを一切せず、徹底的に聞き役に徹することが大切だという。親切でアドバイスしたところで、鬱状態の人にとっては何も受け入れられないか、あるいは拒否されてしまってさらに状況が悪くなることさえある。この信頼できる聞き手に、夫や、あるいは妻がなることができれば、問題は初めから起こらないのかもしれない。  日本国内の転勤・転居でも大きなストレスになるわけだ。海外赴任にあたっては、どのようなことが起きるかあらかじめ予想することも難しく、せめて夫婦間では事前に十分話し合いをして赴任前の精神的な地ならしをしておきたいものだ。
 特に製造業ではこのところ海外派遣社員数が急増しているが、海外とはまったく縁がないと思っていた社員にとっても海外勤務の可能性が大きくなってきている。次は自分かもしれない、あるいはそのうち海外に行くことになるだろうなと考えている暇なく海外勤務を迎えることも少なくないと思われ、精神的な負担がますます大きくなることが懸念される。海外に社員などを駐在させる事業所側も、そのあたりのことまで十分考慮しておく必要がある。

予防接種

 海外に長期滞在する場合に忘れてはいけないことが必要な予防接種の実施だ。渡航に際して最も質問が多いことでも関心が高いことをうかがわせるが、その一方で準備なしで渡航して、たとえば子どもの学校への入学に際してトラブルになるなど現地で慌てることも少なくないようだ。予防接種の種類や接種の方法など、日本の標準が海外では通用しないことも多く、事前に渡航先の情報を仕入れておくことが大変重要になる。
 幸いインターネットでは豊富な情報を得ることができるので心強いが、予防接種は年齢やその人の背景によって必要とされる予防接種方法が異なることがあるほか、国別に細かな情報を得られるとは限らないなど、その情報の利用や判断が難しいという側面もある。情報は、事前にできる限り入手しておくのは得策ではあるが、勝手に判断することなく最終的な予防接種計画については医師と相談することが望まれる。

予防接種の問題点

 海外渡航が決定して実際に渡航するまでの期間は長くても3か月程度。辞令が下りた翌月には出国しなければいけないことも珍しいことではなく、必要な予防接種をすべて受けることが困難であることが少なくない。特に生ワクチン接種後4週間はほかのワクチンを接種できなくなることから、日本国内では最小限の接種しかできずに出国する場合もあるだろう。A型およびB型肝炎予防接種は完了に6か月を要する。したがって一般的にはどんなに早く辞令が下りたところで接種を終えることはできずに、赴任地で継続接種することになる。  同じ病気に対する予防接種でも、日本と海外では接種法や接種量が異なることも多いので、必ず医師に相談して次回の接種タイミングなどについて判断を求めたい。そのためにも日本で接種した記録は、できれば英文に翻訳して持参したい。乳幼児の予防接種においては実施タイミングも含めて大きく異なる場合もあるので、赴任地の医師にできる限り詳細な経過説明をしたうえで、予防接種実施計画の見直しをしたいものだ。
 ところでBCG接種は、日本では一般的であるが先進国の中でもアメリカでは実施されていない。日本出国前にBCG接種を受けてアメリカに渡航したところ、現地のツベルクリン検査で強い陽性が認められたために長期間にわたって結核の薬を予防内服させられたという事例がある。
 日本は先進国の中でも結核患者が目立って多い国だ。そのような国から渡米してきた人が結核に感染していると医師が疑ってもおかしくはない。ワクチン接種の記録があるとこのような場合でもトラブルを回避できる。もちろんこのような場合も現地の医師に対する十分な説明が大切だ。

子どもの予防接種


○WHO(世界保健機関)が定める予防接種

BCG、3種混合(DPT-ジフテリア、百日咳、破傷風)、麻疹、ポリオ

○日本における基準

WHO推奨に加えて、日本脳炎、風疹単独、おたふく風邪単独、水痘、インフルエンザに任意推奨
 WHOが定めるといっても日本の例を見ても明らかなように、各国で必要とされる予防接種の種類は若干異なる。さらに日本の予防接種は諸外国と比較すると特殊ともいえる部類に入る。ただでさえわかりにくい予防接種のことが、なおさら理解しにくくなるのはこのあたりに問題があるからではないか。日本では副反応の問題が大きくなって接種が長期間中止になったままになっているMMR(麻疹、風疹、おたふく風邪)に関して、その安全性に関する質問を頻繁に受けるが、海外では副反応の報告はほとんど問題にならないレベルで普通に実施されている。MMR接種が中止されてから単独接種に切り替えられたが、やはり複数回接種を受けなくてはいけない煩わしさが大きい。
 日本の医療は世界トップクラスであるという意識が強い人は、そんな日本でMMR接種による副反応が問題となって中止されているというのに、海外で受ける接種が安全であるはずがないという先入観がある。先進国であれば日本のシステムとの違いを受け入れやすいが、途上国では先入観が邪魔してどうしても納得がいかないということも少なくはない。しかし海外赴任家族は長期間滞在することになる国で、様々な場面でその国の医療に関わるわけであり、日本と違うということで拒否してばかりではいられない。  特に小さな子どもを持つ親にとって予防接種は避けて通れないものであるばかりか、日常の診療においても地域医療を頼らなければならないわけであり、医師との十分なコミュニケーションのもと、しっかりとした信頼関係を築いておきたいものだ。
 さらに乳幼児の予防接種はWHO(世界保健機関)が定める世界標準に従っている国が多く、出生後3か月までには予防接種を開始し、早期にすべての接種を完了してしまう。これは母親から受けた免疫が半年程度で消失してしまうため、早く追加の免疫をつけてやらないと感染・発病のリスクが大きくなるからだ。日本も戦後世界標準にしたがっていたものの重篤な副反応による死亡例が相次いだため、1970年に日本独自の接種方法に改めた経緯がある。これは早期に予防接種することが悪い結果を生んでいたというわけではなく、ワクチンの医薬品としての品質に問題があったというのが理由だ。しかし現在に至るまで、ゆっくりと時間をかけて予防接種したほうが安全であるということを根拠に、日本独自の接種法が実施されていることが混乱の原因だろう。


感染症対策

新興感染症

 新興感染症といっても一般にはあまり馴染みがないかもしれない。WHOの定義では「かつては知られていなかったものの過去約20年間に新しく認識され、局地的に、あるいは国際的に公衆衛生上の問題となる感染症」としている。新しい感染症が次々と話題になるなかですでに記憶は遠くなっているかもしれないが、関西地方を中心に多くの人をパニックに陥れたO-157は日本で発生した新興感染症の代表といえる。この10年ほどの間にSARS、鳥インフルエンザ、西ナイル熱と続いており、常に新しい感染症の脅威に人類がさらされているといっても過言ではない。もちろん、1980年代に明らかになり現在アフリカなどでは国家の存亡までもが脅かされるほどになっている「エイズ」も同類だ。そのほかにもニパウイルス感染症、マールブルグ病などといった聞きなれない名前の感染症も少なくない。
 新興感染症が怖いのは、治療法が確立されておらず、患者が発生しても手探りの治療しか施されないことだ。しかも初期の段階ではその感染ルートさえ不明であることが多く、積極的に感染拡大を阻止する対策が取りにくいこともその特徴といえる。
 日本で初めてO-157感染者が次々に現れた当時、的確な治療法を見出すことができない医師同士がネット上で情報交換しながら患者治療にあたっていたなど、医療現場では凄まじいほどの混乱が生じたものだ。
 近年現れてきた新興感染症の多くは、現代の進んだ医学でこれまでのところはなんとか乗り切っているといえるだろう。もちろんエイズのようにいまもって完全な治療法が見出されておらず延命治療に限られているものもあるが、それでも感染ルートがはっきりしているので対処の方法はある。
 現在のところ最も懸念される新興感染症は、鳥インフルエンザが変化して人から人へ感染するようになった新型インフルエンザだ。スペイン風邪やイタリア風邪など一千万人単位の死者を出した歴史上のインフルエンザが、元はといえば鳥インフルエンザであったことが判明している。
 新興感染症は、元来動物の病気であったり、あるいは野生動物の体内で宿主となる動物と共存していた微生物が原因であったりするものが多い。野生動物から未知の感染症が人間に感染する機会は、熱帯林の伐採や奥地の開発で野生動物の生息域と人間の生活圏との境界がなくなるなどしたことで、昔より格段に増えていることは確かだ。  海外生活にあたっては、当然ながら日本では見られない感染症に不幸にも感染するリスクが大きくなる。たとえ病気に気をつけた日常生活を送っていたとしても完全にリスクから逃れることはできない。これまでの新興感染症が起きてきた起源からすると、野生動物には近づかないことだ。野生動物と接触する機会は通常ないかもしれないが、たとえば市場で売られている食用の生きた鳥が飼育されていた場所は、昔は人が住んでいないような奥地で、もしかすると野生動物との接触が可能なところだったのかもしれず、体内に危険なウイルスなどを持っているかもしれないのだ。野生の小動物はもちろん、野生動物と何らかの接触をもっていた家畜類が食用に売られていることも海外では珍しくはない。そのような場所になるべく近づかないことは、必要最小限の感染症予防策となるに違いない。もちろん日常生活でも、たとえば庭に飛んできた鳥や迷い込んできたような動物に触れることは極力避けるべきだ。

寄生虫疾患

 途上国に限らず海外で生活するにあたって、特に注意が必要となるのが寄生虫疾患だ。ギョウチュウは、今でも日本の小学校では検査をしているほどの代表的な寄生虫で誰もが知るものである。家族で駆虫薬を飲んだという経験者も少なくないはずだ。日本での感染率はかなり低下しているが、海外では集団検診で感染者を見つけて治療するようなことはしておらず、どこの国でもその感染率は高いと見ていいだろう。そのほか昔から有名な寄生虫として回虫などもあげられる。しかしこれらの寄生虫はたとえ感染してもそれほど害悪はないといわれ、どちらかというと人間と共存関係にあるともいえる。人糞を肥料として使っている野菜などから感染する寄生虫はこの類であり、もちろん感染しないほうが良いが、怖がるようなものでもない。
 ところが人を最終的な宿主とはしない、つまり人と共存関係にない寄生虫が感染した場合は、一般的に症状が重くなるものと思っていて間違いない。川魚、獣類など例外はあるものの昔から生で食べることがなかったものを生食して感染することが多い。刺身のようにそのまま食べるだけではなく、上海蟹の紹興酒漬のように加工したものでも肺吸虫という寄生虫に感染の危険性が大きい。生では食べないものを加熱せずに食べることは絶対に避けたいことだ。
 日本でもドジョウやカエルなどを精力剤として丸呑みしたりする人があったというが、海外では今でもそのような場に居合わせる機会があるかもしれない。海外生活で無理にそのようなものを食べるというような勇気はまったく必要なく、たとえ勧められても絶対に真似るべきではない。食中毒予防もかねて、食品は加熱したものだけを食べるということを原則として、信用が置けるレストラン以外では、生ものには決して手を出さないという覚悟でいても良いだろう。

肝炎

 A型肝炎はウイルスに汚染された食品が主な感染原因となる。衛生状態が悪い国や地域での感染リスクが当然大きく、生水・生ものには十分注意しなければいけない。水や魚介類に気をつけている人は多いが、過熱してある食品でも調理後にウイルスに汚染される危険性があるほか、水割りなどの氷も危険だ。
 B型肝炎は血液や体液を介して感染することが多く、性交渉が主要な感染経路にあげられる。しかし、医療行為によって感染する可能性があることも考慮しておきたい。特に慌ただしい救急医療現場では、その危険性が高いと思われる。
 A型肝炎、B型肝炎ともに海外では感染リスクが高いと考えたい。しかしながら中国などハイリスクな地域に赴任していてもワクチンの接種率は決して高くはない。ワクチンを決まった方法で接種できていれば、これらの肝炎に感染発症する危険性はほとんどないにもかかわらず、さまざまな理由をつけて未接種でいる人も少なくない。A型肝炎を発症した奥さんにかわって朝は子供の弁当を作り、昼には妻の食事を準備するために自宅に帰るという毎日を経験した駐在員もいる。この駐在員、本人も以前にA型肝炎を発症し、1週間ほど入院。海外での治療に疑問を感じて帰国。東京の病院で1か月も入院したという。この間仕事ができないわけで、本人も大変だが会社にとっても大きな損失であるはずだ。ワクチン接種は多大なコストがかかるわけではない。会社にとっても保険の意味があるものと解釈しておきたい。

ノロウイルス中毒(小型球形ウイルス中毒)

 魚介類、特にカキが原因食品となることが多く、激しい下痢など強い腹部症状を伴う。予後はよいものの感染力が大変強いので食中毒としてではなく学校などの集団生活の場でも感染することがあり、時として休校に至ることもある。もちろん食品が原因となるすべての食中毒のなかで最も患者数が多く、ホテルのビュッフェに出されたカキを生食して感染することが多いようだ。患者の嘔吐物や下痢便にもおびただしい数のウイルスが排泄されており、これらをふき取ったりして接触した人が感染することも珍しくはない。一般家庭でも、特に子供の下痢便や嘔吐物を始末するときは、本感染症とはわからなくてもゴム手袋などを着用し、事後は石鹸で手を良く洗うことが大切だ。

クリプトストリジウム

 激しい下痢と腹痛を起こす消化管寄生原虫として知られ、衛生状態が悪い地域に限らず、米国をはじめ世界各地で大規模な集団感染を起こしている。クリプトストリジウムは水道水やプールの塩素でも死滅することがなく、煮沸のみが有効な殺菌手段である。予後が悪い感染症ではないが、感染力が非常に強く、たった1個の原虫でも感染の危険性があるため、少なくとも生水は飲まないなど最低限の自衛は必要だろう。水道水をそのまま蛇口から飲むことは避けたほうがいいだろう。
 日本でもクリプトストリジウム感染がときどき話題になるので、水質が比較的よいとされる日本でも、水道水が生のまま飲める時代でなくなりつつあるのかもしれないが、海外では途上国や先進国などの区別なく、基本的に水道水も生水として扱い、煮沸しないで飲むのは止めたほうがいいだろう。

コレラ

 この病気は、米のとぎ汁様の激しい下痢を認め、適切な治療をしなければ極度の脱水症状を起こして死に至ることもある。昔は「コロリ」とも言われるくらい死亡率が高い「伝染病」だったが、現在では下痢で大量に失われる水分と電解質をうまく補うことができるため、もはや怖い病気ではなくなった。
 コレラは代表的な水系感染症で、衛生状態が悪い国などでは生水に注意するように幾度となく警告されるが、最近の感染事例をみると輸入食品が感染源になっている場合も少なくないようだ。たとえばエビ。香港での事例であるが、タイ料理店で出されたエビの刺身でコレラに感染したという報道が何度かあった。これはタイから輸入されたコレラ菌に汚染されたエビが、レストランで客に生で供されたことが原因となったものだ。また別の事例ではレストランの生簀にコレラ菌に汚染された海水が使われており、そこで泳がされていた魚を刺身で食べたために感染発症したというケースもある。
 刺身を伝統的に食べる習慣がある国は極めて少ない。中華圏ではもともと生を食べる習慣がなかった。しかし生活レベルが向上し、所得水準が向上したことでより高級なメニューを客から要求されるようになり、刺身など本来調理した経験があまりないものを客に出すようになったことに問題がありそうだ。
 海外で刺身などを食べるときは信頼のおけるレストランに限るべきで、たとえ高級であったとしても少なくとも中華レストランなどで出されるような刺身を食べるべきではない。刺身などを出すにはそれなりの衛生管理が求められるはずであるが、基本的に必ず火を通す中華料理の場合、そこまでの衛生管理は不要だからだ。
 コレラの予防にはワクチン接種も考えられるが、確実に効果が期待できるというものではなく、海外、特に衛生状態が悪い国では生ものに気をつけるなど日頃から自衛することが最も求められる。

性感染症

 若年者層のクラミジア感染率が非常に高くなってきたことで日本でも性感染症に関して関心が高くなっている。かつて三大疾病(梅毒、淋病、軟性下疳)が性感染症の代表とされていた時代もあるが、これらが治癒可能な病気で怖いものでなくなってからというもの、HIV(エイズ)が現れるまでは性感染症自体が忘れられたようなこともあった。  今ではHIV感染を単なる性感染症としてのみならず、国家存亡の危機として捉えている国もあり、大きな社会問題、あるいは国際問題となっていることは間違いないことだ。HIVに感染すると、高価な薬を飲み続けることで発病を遅らせることはできても、根本的な治療は望めずその先には確実に死が待っている。その意味で深刻に捉えることは大切であるが、だからといって他の性感染症を軽く見てもよいということにはならない。
 海外出張者などが海外から性感染症を日本に持ち帰ることもある。行きずりの出来事で取り返しがつかなくならないように、自らの行動を自制することが大切だろう。性感染症はたとえ感染し